血みどろの入江

gakus2010-04-07

 といってもマリオ・バーヴァとは何も関係ない『ザ・コーヴ』(6月公開)のお話。イルカ漁を非難したことで話題となった上に、アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を受賞した問題作。これは怖い…といっても、決して映画のホラー・タッチが恐ろしいわけではなく、訴えている内容が怖いわけでもない。

 アメリカもイルカ獲ってるのにとか、撮られるた側が撮る側を妨害したというのはフェアではないとか、映画に直接描かれていないことは置いておくとして、ここでは描かれていることのみで話を進める。

 すでにニュース等で報じられているとおり、本作はイルカ漁を行なっている和歌山県太地町にカメラを向ける。主人公はイルカ保護の活動家リック・オリバー。1960年代に放映された『わんぱくフリッパー』にイルカの調教師役で出演した彼は、撮影に使われたイルカの扱いが酷過ぎたことに衝撃を受け、保護運動に乗り出したという。オリバーは太地町に乗り込み、イルカ漁の実態をフィルムに収めようとするが、地元の漁師たちがそれを認めない。そこで撮影隊はダイバーやプロのカメラマンを擁し、ゲリラ撮影を敢行。そしてイルカ漁の実態がカメラに収められることになった…。

 まずビックリしたのは、イルカ漁がなぜいけないのかという理由を、”イルカは人間より知能が高いかもしれないから”という点に求めていること。これじゃ”豚は人間より綺麗好きだから””牛は人間より目がつぶらだから”食っちゃいかん!と言っているのと大差ない。絶滅危惧種として具体的な数字を挙げて説明されるなら納得もいくが、それがないから、これじゃあオリバーさんが牛と共演してたら牛の保護活動家になってたんじゃないかと思えてくる。そもそもイルカが人間より知能が高いとして、食物連鎖の下にいるのはなぜだ? その理由を説明してほしい。

 この映画ではその牛も引き合いに出される。”「食」は文化というが、牛肉は確かに文化であり、世界中が食べている。でもイルカは東京の人間さえ食用とされていることを知らない”という論調にも脱力した。東京の人々に”イルカを食べれると知っていたか?と尋ねて、”知りませんでした”と答えるフッテージを挿入している(外国人には騙せても、日本人が見たら明らかに”こりゃ、ヤラセだろう!?”というインタビューも混じっている)。映画の作り手は、数さえ大きければ文化として成立すると考えているようだ。アザラシを食べるエスキモー、犬を食べる中国人は数的にセーフなのか?

 そしてイルカの体内の水銀量を水俣病と比較してる点に”???”。企業が意図的に垂れ流した水銀の量と、水棲の哺乳類が自然に摂取する量を同等と考えているらしい。さすがにここまでくると、イルカを食べことは”悪”であると、ヒステリックに叫んでいるだけなんじゃないか?と思えてくる。”ついで”のように挿入されるクジラ漁批判も、これではまったく効力がない。

 そうなると隠し撮りされたクライマックスの映像もヒステリーの上で成り立っているとしか思えず、イルカの血に染まった海の映像も必要以上に強調されているだけなんじゃないの?という疑念が沸き起こる。つまり、この映画にはドキュメンタリーが本来、持つべき論理的な視点が欠けているのだ。

 にも関わらず、アカデミー賞を受賞したという事実が恐ろしい。単純にアカデミー会員に見る目がないだけならともかく、クジラを食べている反日感情が味方しとしたら、ゾッとしてしまう。そしてアカデミー賞という権威を得たことで、この映画が絶対に正しいと盲目的に思い込む観客がいる考えると、やはり恐ろしい。アカデミー賞プロパガンダ部門があって、それを本作が受賞したならば納得のいくところだが…。

 念のため、自分はイルカは食べたことがないし、イルカ漁に関しては賛成でも反対でもない。なのでイルカ漁に反対するこの映画は、自分を反対派にするかも…と思って見たが、この内容では逆効果なんじゃないか?

 さらに念のため。このエントリーはイルカ漁に賛成しているわけではありません。あくまで『ザ・コーヴ』という映画に対する批判です。

 ジャケはDAVID BOWIE、1978年リリースの国内盤シングル『HEROES』。この曲がエンドクレジットにフィーチャーされているが、これまたなぜ起用されたのかワケがわからず、デビッド・ボウイともあろう人が、この映画に賛同したのかなと思うと余計に怖くなる。この曲が使われている同じ血みどろ映画なら、『ニンジャ・アサシン』の方が悪趣味というだけだから罪が軽い。