そこにはいない

gakus2008-01-08

 前回に続いて、ボブ・ディランがらみのエントリー。アメリカで高評価を受けている伝記映画『アイム・ノット・ゼア』(4月公開)のお話です。

 6人の俳優がボブ・ディランを演じ分けることで話題を呼んでいたが、ディラン本人を演じるのではなく、ディランの分身的な人物を6人が演じ、それぞれの物語が同時進行するという作り。冒頭“ディランの偉大な音楽と、人生に触発された物語”とテロップが出る。そんなワケなので、この6人の中に、ボブ・ディランという役名のキャラクターはいない。

 6人の擬似ディランは以下の顔ぶれ。映画のナレーター的な役割を果たす詩人アルチュール・ランボー(『パフューム』のベン・ウィショーが演じる)、ウディ・ガスリーと名乗りギターを持って旅をする11歳の黒人少年、人気の絶頂にありながら失墜して神の道に入るシンガーソングライター(クリスチャン・ベイル)、彼の伝記映画に主演する俳優で結婚生活が破綻しかけている映画スター(ヒース・レジャー)、フォーク・ソングを捨ててバンドを捨てたことからメディアやファンに猛批判されるアーティスト(ケイト・ブランシェット)、開拓時代の西部で隠遁生活を送る流れ者(リチャード・ギア)。いずれもディランをほうふつさせるキャラではあるが、ディランではない。まさしく“I'm not there”。

 とはいえ、ディランが持っていたある種のスピリットは確かに伝わってくる。6人は、カリスマ視する周囲の視線や周囲が貼りたがるレッテル、名声、常識、しがらみなどから逃れようと、もがき続ける。そこには飽くなき自由の希求を見て取れるのだが、どうだろう。妻子を捨てるなどのモラルに反することもあり、ディラン本人とはかけ離れた点もあるだろう。そういう意味では、これを伝記映画の範疇でくくるのは間違いかもしれない。むしろ、ギリギリまで自由を求め続けた人間の高潔さやリスク、破壊性などを浮き彫りにした寓話と呼んだ方が、自然じゃないかな。

 ディランの熱心なファンではないので音楽に関して詳細なツッコミはできないが、サントラのインフォメーションを聞くかぎりでは、かなり面白そうな内容。ブートレグでしか聴けなかったディランのタイトル曲や、ソニック・ユーストム・ヴァーレインらが結集した特別編成バンド、それをバックにしたスティーヴ・マルクマスによる“MAGGIE'S FARM"(この曲はステージでケイトが演奏し、フォークを求めるファンからブーイングを浴びる)、ヤー・ヤー・ヤーズのカレン・Oの参加など、興味を引かれる点が多い。サントラを聴きこんで、改めてこの映画を見直してみようと思う。

 ジャケはボブ・ディラン、1967年のアルバム『JOHN WESLEY HARDING』。このアルバムから4曲が、カバー等により劇中で使用されている。